腰痛コルセットの金属板の入ったものを探しています 母が昔石膏で型をとって作っ
夕食後、仕事を始めるとすぐに母が呼んだ。湯たんぽが冷たいと言う。昨夜から布団に入れっ放しだ。急いで湯たんぽを下げて台所に行くと、下げて行ったのは簡易トイレのバケツだった。最近、私も惚けたようだ。
「うっかり、バケツのおしっこを湧かすところだった」
母のベットに戻って、湯たんぽを取り出しながら言った。
「おしっこでも、お湯でも、温かければ同じよ」
母は楽しそうに笑っていた。
赤羽台団地にて。
2009年2月13日
赤羽自然観察公園に保育園の小ちゃな子供たちが大勢来ていた。
「こんにちわ」
可愛い行列に挨拶すると、子供たちが質問した。どうやら、母がなぜ車椅子に乗っているか知りたいようだ。
「まだ赤ちゃんだから、歩けないんだ」
と答えると、女の子が「どうして赤ちゃんなの」と言った。
「赤いから、赤ちゃんだよ」
母の赤いダウンコートを摘んで言った。
子供たちは「赤ちゃんにしては大き過ぎる」とか「可愛くない」とか、勝手なことを言い合っていた。子供たちは可愛いばかりだが、大きくなったら派遣切りや介護で苦労するのだろう。
夜9時、ベットの母を見に行った。母は呼吸の動きが小さく、死んでいるように見えた。しばらく眺めていても動く気配がないので、試しに布団を直すと母は目覚めた。何でもないと分かっているが、つい万が一を思ってしまう。
「私、寝る前に飲む薬、飲んだかしら」
母は睡眠薬と緩下剤のことを聞いた。それらは1回分づつプラスチックケースに入れてある。
「飲んだよ。ほら、空でしょう」
空のケースを見せると、「うん、飲んだみたいね。ありがとう」と母は礼を言って寝入った。
母が死んだら、そんな何でもない感謝の言葉を思い出すのだろう。立派な言葉より、日常のささやかな言葉が深く心に残るのかもしれない。
赤羽自然観察公園の湧水池の橋で立ち止まると岸辺に彼岸花が咲き始めていた。突然に出現した鮮やかな花に母は見とれていた。
「今日も、暑いですね」
公園の係が母に挨拶して通り過ぎた。このところ仕事が忙しかったので、公園の穏やかな雰囲気が心地良い。母が元気を取り戻し、いつも微笑んでいるのがうれしい。椎の木陰で休んでいる母を眺めながら、知人からの電話を思い出した。
彼女は今年七月に実母を亡くした。
「無理難題を言って困らせていた母なら、憎たらしいだけなのに、思い出すのは優しい姿ばかりで、辛くて辛くて」
彼女は言葉を詰まらせていた。
私も母が逝けば、母の優しい笑顔ばかり思い出すのだろう。母は体力が更に落ちたが、そのまま安定期に入った。後、二度ほど体力が落ちたら公園行きは無理になりそうだ。
昨夜は戸田の花火大会だった。その方向に高層マンションができてから眺望が半減し、この建物からの見物客は減った。花火見物はすぐに止め仕事へ戻った。遠い花火の音が、いつもより乾いて聞こえた。
十三年前に引っ越して来たころは玄関前通路に浴衣姿の見物客が大勢集まった。玄関を開けっ放しで宴会をやっている家も多く、前を通ると飲んで行けと誘われた。子供や若者も多く長屋の祭りみたいで和気あいあいと楽しかった。
「玄関前で焼き鳥屋を開けば儲かるね」
元気だった母が、冗談を言っていたのを懐かしく思い出した。
やっと、止まっていた時間が動きはじめた。午後六時に流れる「夕焼け小焼け」から母が死んだ六時半までの哀しみは相変わらずだが、引きずることはなくなった。
朝、生協浮間病院に往診を頼んだ。それから、ケアマネージャーに介護ベットの手配をしてもらった。
介護ベットを入れるには、ベット下に保管してある額やキャンバスの木枠が邪魔だ。それらは大宮の浜田氏に引き取ってもらうことにした。浜田氏は絵描きの知り合いが多いので、有効に使ってくれるだろう。
昼まで、ベット下や部屋を片付けていると、母が寝たまま粗相をした。以前なら母は体を動かしてくれるので手間はかからない。しかし、弱った母はピクリとも動けず、清拭は大変な作業になった。無我夢中でかたづけ、寝間着やシーツを洗濯し、シャワーを浴びた。それから、薬局へ防水シーツの予備を買いに行った。
総てが終わった頃に日医大の白菊会から派遣されて葬儀社社員が来た。丁重に母の周りにドライアイスを置き、明日の予定を説明して帰った。入れ替わりに、母が親しくしていた病院関係の洲崎さんが来た。彼女は毎日見舞いに訪ねて来て、辛い気持ちの支えになってくれた。
新橋の小料理店で働いている晃子姉には夜十時半に知らせた。十二時前に駆けつけた姉と二人だけの通夜をした。明日、お昼に母は日本医科大に献体する。
三月三日
寒い中、緑道公園でドラネコが死んでいた。近所の人が用意したのだろう、傍らにお棺代わりの段ボールが置いてあった。太った可愛い黒キジのドラネコで外傷も毒物を飲まされた形跡もない。表情は安らかで気持ち良く眠っているように見えた。車椅子の母には、通り過ぎてから教えた。
以前の住まいの庭はネコの死に場所で、幾度も臨終に立ち会い、区役所に引き取って貰った。当時は道路で死んでいるネコはゴミ扱いで、清掃局が無料で引き取りに来た。私の場合は毎度敷地内なので、二千円負担した。清掃局に連絡すると、すぐに緑色のヘルメットと作業服の担当が二人で来て、ネコを綺麗なバスタオルでくるんで両手で抱きかかえ丁重に引き取ってくれた。
人と比べると動物の最期は立派である。誰にも助けを求めず、静かに眠るように死ぬ。もしかすると、人は医学の進歩で却って不幸になっているのかもしれない。母がよく話してくれる昔の人の死に方はどれもとても静かだった。
帰り、緑道公園を通ると、ドラネコは片づけてあった。先日は蕎麦屋の植え込みでカラスが逆さまになって地面に転がっていた。てっきり死んでいると思ったら、声をかけると目が瞬いた。その後、カラスがどうなったのか気になって仕方がない。
予報では、明日は雪が積もると言っている。去年の日記を見ると、雪柳が芽吹き、自然公園のオオイヌノフグリは咲いていた。桜も三月十五日に開花している。この寒さでは、桜の開花は遅れるかもしれない。
緑道公園を車椅子を押していると、保育園児が芝生に丸く座って昼食をとっていた。
「正喜はみんなと一緒は、絶対にダメだったね」
母は私が大堂津小学校一年のころの授業参観を話した。ダンスの授業授業参観に母が行くと、私はダンスの輪の真ん中で地面に絵を描いていた。
「ダンスがいやなら、一人でお絵描きをしていなさい」
先生に叱られた私は喜んでそうしていた。
私は好きなことしかしない問題児だった。しかし、先生たちは優しく、私がどんな絵を描いても満点をくれた。それで絵に対してゆるぎない自信をつけることができた。 もし、都会の小学校だったら先生はえこひいきしていると非難され、そのような自信は生まれなかったと思っている。
歯科医院は赤羽自然観察公園の近くにある。治療の後、母が死んでから始めて公園に寄った。しかし、さらに野趣が失われていて、懐かしさはなかっ た。すぐに帰ろうと裏門へ急いでいると、田圃の係だった松下さんと会った。彼と私は同じ床屋さん使っていたので、母の死を伝え聞いていた。丁重にお悔やみ を言われると、胸が詰まって言葉が出ない。挨拶をプリントした死亡報告をいつもバックに入れていたので、それを渡し、何度も頭を下げて別れた。