立ってる時は全然大丈夫だったりむしろ少し余裕のあるズボンでも座ると食い込

立ってる時は全然大丈夫だったりむしろ少し余裕のあるズボンでも座ると食い込

綾乃が着いた時、既に須永は改札の外で待っていた。青いTシャツにデニム。綾乃と目が合うと、軽く手を挙げ、口元を少し緩めた。微笑み、のように見えなくもなかった。それが綾乃には意外だった。
「汚いところだけど」
そう須永は言った。なので、古くて小汚い焼き鳥屋を綾乃は想像したが、須永が連れて行ったのは、祐天寺の駅から歩いて三分ほどの場所に立つ須永のマンションだった。
か、彼の部屋? 焼き鳥屋ではなくて彼の部屋?
綾乃はびっくりして入るのを躊躇ったが、須永の方は、非常識なことをしているという自覚が微塵もないようで、振り返りもせずに、築四十年以上は経っていそうな古くて薄汚れたマンションの中に入っていった。それで綾乃も抗議のタイミングを失ってしまい、彼と一緒にそのマンションに入ることになった。
「どうぞ」
須永が綾乃を室内に招き入れる。
「お邪魔します」
小さな玄関には、須永のサンダルしかなかった。高年収で雑誌の表紙に抜擢される若き起業家でありスタープログラマーの住む部屋とは思えなかった。当惑しながら靴を脱いだ。
玄関を入ると、左手に二畳ほどのキッチンがあった。
「今、用意するから中で適当に座ってて」
「あ。はい」
前方にあるリビングに続く扉を開けた。二十畳ほどのリビング。ベージュの三人掛けのソファーと黒いガラステーブルが、真ん中に置いてある。他には何もない。壁の右側は全面クローゼット。お洒落な気もするし、殺風景なだけという気もする。真奈美がこの部屋を見たらなんというだろうかと少し考えた。
「ごめん、開けて」
扉の向こうから須永の声がした。鞄を床に置き、閉めたドアを再び開ける。彼は右手に新品の焼き鳥焼き器を持っていた。そして、左手にはシルバーのトレー。その上には、串を綺麗に刺してあとは焼くだけという状態のものが三十本ほど並んでいる。須永は、ガラステーブルの上にその両方を置き 「よし。やろう」
と嬉しそうに言った。
「これ、マイ焼き鳥器?」
「そう。昨日届いた」
「へえ」
須永はソファーに座ると、焼き鳥器の使用説明書をぱらぱらと復習するように見た。
「錦糸町に美味い焼き鳥屋があってね。で、もしかしたらあの味は家でも作れるんじゃないかと思ったらどうしてもやってみたくなって」
「へえ」
そういうところは、普通の男子とあまり変わらないのだなと綾乃は思った。とことん変人というわけではなく、とっつきやすい部分もあるようだ。少し親近感が持てて良かった。須永は一度キッチンに戻ると、次は半ダースの缶ビールと、封が開いていないたくさんの調味料を持ってきた。
「さて、焼きますか」
綾乃は、どこに座っていいかわからず 「何をすればいい?」
と立ったまま須永に訊いた。
「君の仕事は、座って、そして食べること」
そう言って、須永はソファーの席を右にずれた。同じソファーに座れという意味のようだ。それが嫌なら床に座るしかない。そこで、綾乃は多少緊張しながら須永の隣に座った。

雨の日なんて最悪だ。車内は異常なほどじめじめして、蒸し暑さと不愉快さのあまり気を失いそうになる。事実ひと区間ほど意識が飛んだことがある。というか、ぼくはかねてから思っていたのだけれど、これほど劣悪な環境に長時間人を立たせるというのは人権侵害じゃないのかな。ようやく着いたと思って車内から出たらそこはまったく見たことのない土地で、ホームには浅黒い肌をした奴隷商人がにこやかに立っていて、彼らの手引きでどこぞの富豪に売られてしまうことになってもきっとぼくは不思議に思わないだろう。つまり、満員電車とは二十一世紀的解釈が行われた一種の奴隷船だ。そう思わざるを得ない要素が多分にある。

具体的な内容は
・面談:最近目立った症状はないか?気になることはないか?
・入院にあたって準備するもの(書類、入院用品、バースプラン等)
という感じです。 助産師さんといっても、いつもはきはきしててすごく好感持てる方なのでよかったです。

それから、定時まで、努めて須永のことは考えないように仕事をした。年末というのは雑用のピークの時期なのでやらなければいけないことが多く、集中するには都合がよかった。そして、気だるい定時のチャイムが聞こえてからも三十分くらい働き、キリのいいところでパソコンの電源を落とした。と、背後から 「で、なんて返事をしたの?」
という声がした。振り向くと、真奈美が腰に両手を当てて、見下ろすように立っていた。
「……」
「まさか、まだ返信してないの?」
「……」
「しょうがないなあ、もう。じゃ、これ使いなさい。取引先からもらったの」
そう言って、真奈美が一枚の紙を差し出してきた。それは、最近渋谷で人気のイタリアン「リストランテ・ナカヤマ」のクーポン券だった。スパークリングワインがフルボトルで一本付くコースのディナー。期限は二十五日のクリスマスまで。格安クーポンサイトのチケットだ。
「こんなの貰えないよ。真奈美が彼と行けばいいじゃない」
「もう断られた」
「え?」
「クリスマスは家族サービスなんだって」
そう言って、真奈美は綾乃の隣のデスクに座り、両手で頬杖をついた。真奈美の不倫はもう四年になる。相手は二十歳も年上の男で、今まで一度も「いつか妻とは別れる」と言ったことがないのだという。男なんて選び放題のはずの真奈美が、もう四年もそういう男と付き合っていることに、綾乃はいつも男女関係の難しさを感じる。
「だからさ。これ、無駄にするのもったいないから、綾乃と須永さんで行って来なよ!」
そう真奈美は不機嫌そうに言った。
「いいよ」
「いいから」
「いいってば!」
「いいから!」
何度かチケットを互いに押し合ったが、結局、真奈美の押しの方が強かった。それで綾乃は、ありがたくそのクーポンを受け取ることになった。真奈美はその場でリストランテ・ナカヤマに空席確認の電話をかける。人気のレストランなので、普通はそんな近々の空きがあるとは思えない。格安クーポンサイトで販売している商品は、期限切れで使うことができなかった客を見込んだ上で商品価格を安く設定している。予約がとれないというのも計算済みのはずだ。ましてや、今日の明日とか明後日となると、まず、期待はできないと綾乃は思っていた。ところが、ところが。真奈美が電話をしつつ、綾乃にOKサインを笑顔で送ってきた。なんと、今日起きた恵比寿ガーデンプレイス爆弾事件の影響で、明日の十九時にキャンセルが出たという。真奈美は即、綾乃の名前で予約を入れた。
「空いてるし! 予約できたし! これはもう運命だね」
「何の運命よ」
「もち、あんたと須永さん」
「待ってよ。今日の明日だよ? 誘っても彼の方が無理かもしれないよ」
「そんなものは誘ってみないとわからないでしょ。さ、とりあえず誘ってみな」
「んー」
「早く!」
と、ろくに仕事もしないくせにいつもなぜかだらだらと会社に居残る戸田が、二人の会話に割り込んできた。
「おいっ。渋谷はやばいぞ。YouTubeで犯人からの犯行声明が配信されてるの知らないのか? 明日の十八時半に、渋谷ハチ公前で爆破予告だぞ!」
「は? 何ですか、それ」
真奈美が訊き返す。
「場所も時間もわかってるなら、そんなの警察か自衛隊がさっさと爆弾撤去しておしまいじゃないですか。その犯人、バカですか?」
確かにその通りだ。というか、恵比寿の爆弾がただの音と光だけの空砲だったことから、犯人は単なる愉快犯という説がネットでは圧倒的に多かった。夕方、お茶休憩を十分ほど取った時、綾乃もそのくらいは検索していたのだ。
「では、今日はこれで失礼します」
真奈美と二人、オフィスを出た。そして、ビルの外に出てすぐに、須永にLINE電話をかけた。昨日の焼き鳥のお礼に、コスパのいいイタリアンはどう? とても人気の店らしいんだけど。が、須永の返事は素っ気なかった。
「ごめん。大事な接待があって、明日の夜は東京駅近くの店で会食なんだ。じゃ、また」
ある意味、予想通りである。多分、本当にそうなのだろう。
「で、どうしよっか」
綾乃は真奈美を見た。
「女二人で行く? 男に断られた者同士」
「だね。明日は二人でやけ食いだ!」
そう、真奈美が苦笑いをしながら言った。

「ああ、もう一人も座るのかな」「真隣いやだな、立つか」と思ってたら、…座りかけて、やっぱ立って喋ってんのさ。

【小学校 高学年】<1994年(平成6年)10才〜1996年(平成8年)12才>
クラス替えのたびにイヤでイヤでたまらなかった。自分のことを知らない人たちの前で自分の名前を言わなきゃいけないのがたまらなく苦痛だった。大きな声で言うとおかしいのがわかっちゃうから、下を向きながら小さい声でぼそぼそっと速く喋るクセがついた。
小学校5年生のとき、小学校のなかで一番こわいって噂の女の先生が担任になった。もう定年間近の、おばさんってよりもおばあさんに近い先生で、みんなから恐れられてた。授業中にふざけてる子を立たせて叱りつけて「お前なんだ!?言いたいことがあるなら言ってみろ!もっとにらんでみろ!」って言ったり、ぼくもすごく怖くておびえながら過ごしてた。
ぼくは昔から牛乳が嫌いで、5年生まで給食で出た牛乳をいつも残してた。でも、その先生は残すのを許してくれなくて、全部飲みきるまで席を立たせてくれなかった。みんなが給食を食べ終わっても、昼休みの時間になっても、ずっと席に座って牛乳とにらめっこしてた。ぼく以外にもそんな子が5人くらいいて、恥ずかしかったし、給食の時間が毎回苦痛だった。でも、それのおかげで5年生が半分すぎたころには牛乳嫌いがなおってた。ちゃんと飲めるようになってて、昼休みにみんなと普通に遊べるのがうれしかった。
5年生も終わりに近づいてきて、文集みたいなのを書く時期になった。「たのしかった思い出はなんですか」「好きな授業はなんですか」そんな質問が書いてある紙が全員に配られて、授業中に書いた。そのなかには「一番つらかったことはなんですか?」って質問があって、ぼくは先生に叱られたことが一番つらかったからそれを書こうとしたけど、そんなこと書いたら先生怒るかな?って思って書くのをためらってて、みんなが何を書いてるか気になってキョロキョロしてたら、先生が「お前ら、相談なんかしないで自分の気持ちをちゃんと書くんだよ!」って怒ってて、ぼくは自分が言われたのかなって思って、正直に『先生におこられてつらかった』って書いた。
文集が完成してみんなに配られたとき、ぼくは頭が真っ白になった。みんなは一番つらかった思い出のところに「マラソン大会」って書いてた。どの子のページをみてもマラソン大会で、みんな相談したんじゃないの?って思って、先生におこられたことって書いてたのは、結局ぼくとあと1人だけだった。先生に申し訳なくて恥ずかしくて、もう先生の顔が見れなくて、ひたすら下を向いてページをめくってたら、最後の白紙のページに鉛筆でサラサラと手書きのメッセージが書いてあった。それは先生からの言葉だった。「どれほどかわいがったかわからないのに、先生に怒られたことがつらかったなんて、ごねんめ」。
翌年、先生は他界された。ぼくらが最後の生徒だった。みんなで学校の服を着て授業の時間にお葬式に行って、お葬式の会場じゃ「罰があたったたんだよ」って先生によく怒られてた悪い子がヘラヘラしながら言ってたけど、その子は目が赤かった。ぼくは「先生死んじゃったんだ、もういないんだ」って思って、先生に怒られたのがつらかったって書いてごめんなさいって言えなくて、後悔した。
ぼくは先生の家に蚕(カイコ)っていうイモムシ?のエサになる『桑の葉』を取りに行ったのを思い出した。夏休みのとき、ぼくは生物係で、蚕を育てる当番だった。蚕のエサの桑の葉がなくなっちゃって、どうしたらいいかわからなくて、先生に助けてもらおうと思った。先生の家はぼくの家の近所だったから場所は知ってて、勇気を出してもらいにいった。先生の家は庭から玄関まで結構距離があって、ドキドキしながら歩いていって、玄関の前に立って「せせせせせ先生!クワの葉っぱをもらいにきました!」って勇気を出して言った。先生が奥からゆっくりでてきてくれて、学校みたいに怖くなくて、笑いながら言った。「どこかの軍人さんが来たかと思ったよ」先生は桑の葉をたくさん切ってもたせてくれた。
蚕を気持ち悪いっていう子もいたけど、ぼくはイモムシは好きだったし、かわいらしくて好きだった。あるとき飼ってた蚕がいなくなってて、どこにいったんだろうって探したけど、そうしたらガみたいな白いモスラが飛んでて、それが成長した蚕なんだよって先生が教えてくれた。先生は目を細めながらぼくにほほえみかけてくれてた。
小学校6年生のときのクラスが一番たのしかった。ぼくはいい感じの子たちがいるグループに入れてて、たくさん友達がいて、毎日たのしく遊んでた。でもあるとき、そのグループのリーダー格の子2人が喧嘩しちゃって、グループが分裂した。ぼくはそんなことになったグループを抜けたくて、思い切って「ぼくはこのグループに不満をもっている」って書いた紙を1人のリーダーの子に渡した。そうしたら取り巻きの子たちは「安藤が裏切ったー!」って紙をもって走り回って、ぼくはそれが恥ずかしくて、でもリーダーは「安藤が決めたなら仕方ない」って言ってくれて、無事抜けられた。新しいグループに入れて、そのグループは女の子たちとも仲が良くて、ぼくは抜けてよかったって思ってた。元々いたグループの子たちの視線は冷たかったけど、なんとか卒業までこぎつけた。

青空には一点の曇りもない。天球のてっぺんに居座る太陽は、自らの威力を示さんばかりに「これでもか」とギラギラを放射している。降り注ぐ光は頭上にのしかかり、質量があるかのごとくズッシンと重い。
お昼を過ぎると、コースの道ばた何カ所かに、氷ブロックを山盛りにしたバケツが置かれた。大会スタッフの配慮だろう。バケツに手をつっこんで氷を5個、6個とわしづかみにし、パンツの両ポケットに突っ込む。顔や腕や脚やあらゆる皮膚に塗りたくり、口に放り込んでガジガジかじる。内臓を冷やし、皮膚表面も冷やす。体温が1度下がるだけで意識は明瞭になるものだ。身体自体が持っている体温調整力を遥かに超えた環境では、外部要因を徹底的に使うしかない。
並走した選手が「完走できそうなペースで走ってるのは6、7人らしいよ」と教えてくれる。ぼくはその6、7人に含まれているのだろうか? 周回コースということもあり、自分の順位はさっぱりわからない。このクソ暑さと11時間という制限時間を克服し完走できたら、ちょっとは自信がつくのではないかと考えるとヤル気が湧き出し、つかの間シャキッとなる。が、すぐに太陽に押しつぶされてフニャフニャになる。
60kmを6時間28分。ランナー同士は、周回の違いで追い抜いたり追い抜かれたりしながら、少しの時間を並走し、言葉を交わし合っている。
ゼッケンナンバー1番をつけたランナーに何度か追いつく。当大会ではゼッケンの数字が若いほど大会黎明期からの参加者ということになる。1番ならば30年以上前からウルトラマラソンに取り組まれているに違いない。終始マイペースで、ニコニコ笑顔で楽しそうに走られている。わずかな時間を並走するたびに「いい走りをしてますよ」とか「(底の薄い)ターサーでよく走るねぇ」「氷をポケットに入れるのはよいアイデアです」なんて声を掛けてもらう。ベテランランナーからお褒めの言葉をいただくと舞い上がる。「でしょでしょ~」などと調子乗りな返事をしていた。しかし、帰宅してから氏のお名前を検索してみると、おそれ多くも第一回サロマ湖100kmウルトラマラソンの優勝者であった。30年も前に100kmを7時間台で走られているお方に軽口叩いて・・・穴があったら入りたいです。
8周回目、前方をいくランナーが民家の前で立ち止まる。足元には、庭先から歩道に突き出したパイプがある。パイプの先端からゴウゴウと溢れる地下水は、ポリバケツに注ぎ込まれている。そのランナーは、水が満タン入ったバケツを「エイヤッ」と頭上まで持ち上げ、バッシャーンと全身にかぶった。
思わず「み、水ごりですか!」と声をかける。修行僧のような荒行の結果、彼のシャツやパンツ、シューズまでびしょ濡れだが、「気持ちいいよ! 君もやってみたらどう!?」と全身で爽快さを表現している。マネしたい、気持ちいいだろうな。だけどタプタプのシューズじゃペースをあげて走れない。(よし、ラスト1周になったら、絶対やってやるど!)と心に誓う。
80kmラインを8時間51分で通過し、9周目に入る。最終関門とも言える90kmラインは制限時間10時間ちょうど。この1周を69分でいけばクリアできる。
だが100kmを完走するためには、この10kmを65分でカバーする必要がある。更にラスト一周を64分でまとめ、ギリギリ11時間切りを達成できる。
80kmラインからペースをぐんと上げキロ6分にする。とにかくタイムの貯金をしたいという意識で頭がいっぱいになる。
3、4キロはスピードを維持できたが、無理があったのだろう。急に意識が遠のき、立ってるのがやっとこさになる。85kmエイドを過ぎると脚のろれつが回らなくなる。真っ直ぐ走れず蛇行し、この1kmに10分近くかかってしまう。
こんなんじゃ90km関門すら危うい。90kmから先のことなんか考えても仕方がない。熱中症だろうがスタミナ切れだろうがそんな心配している暇あれば、全力で脚を前後に動かし続けるべきだ。90kmを越えたら、いっかい倒れたっていいんだ。とにかく目の前のボーダーラインを乗り越えるしかない。
「先のことを考えなくてよい」と自己暗示をかけると、脚がふわふわ動きだす。アラッ、けっきょく病は気のものなのかねぇ。再びキロ6分にペースが上がる。
89km、9時間55分50秒くらい。のこり1kmを4分ちょいで走れば間に合う! 不可能か? いや今は可能性の有無などを論じている時ではない。自分が出せる最大出力のスピードで駆けるしかないのだ。
住宅街を抜け、突き当たった丁字路を最短インコースをとって左折する。90kmラインのある本部テントが見えてくる。よっしゃ出し惜しみなく走りきったぞ、結果はどうだい?
しかしラインを越したところで主催者の方に「ここまででぇす」と止められる。90kmの記録は10時間1分10秒。ラスト1kmは5分18秒にしか上げられなかった。温情で関門を通してくれないかなと淡い期待を抱いたが、オマケは一切ない模様。ハッキリしていてよいことです。
リタイア地点がそのまま本部会場というのは切なくもあるが、収容バスを待たなくていいので、便利といえば便利である。着替えカバンを置いてある公民館まで20メートルも移動すればよいのだが、なんとその20メートル先にたどりつけない。公民館の駐車場に尻餅ちをつく。選手にぶっかける用に水道から伸ばされたホースの水を、頭のてっぺんから10分間くらいかけ続けるが、一向に体温が下がらない。
本部テント脇に置かれた子供用のプールに、氷のブロックが浮べられている。その冷水にタオルを浸し、頭や両脚に巻きつけて何度も取り替えていると、少しずつ正常な意識が戻ってくる。
後続のランナーたちはそれぞれの周回数を経て、スタート地点へと戻ってくる。若いゼッケンナンバーをつけた60代、70代の伝説的ランナーたちもレースを終える。彼らは着替えもそこそこに、公民館の一室にある食卓を取り囲み、缶ビールで酒盛りをはじめている。大盛りのカレーライスを酒の肴に、日焼け顔なのか酔っ払いなのかわからない赤銅顔で盛り上がっている。灼熱下を11時間走っても尽きない旺盛な食欲。こちとら何一つとして喉を通りませんよ。ウルトラランナーとしての豪快さも内臓のタフさも、とても敵いそうにはありませんです。

レース終了後間もなく、選手とスタッフ全員は市内随一(と思われる)格式あるホテルで再集合する。マラソン大会の後夜祭といえば体育館で立食ってのが相場だが、鶴岡100kmの閉会式は結婚式の披露宴会場のような立派なホールで行われるのだ。受付で名札をもらってつけるのもパーティみたい。
指定された円卓の席に着くと、両隣はランナーではなく大会スタッフの方であった。お二人とも20代くらいの若者である。円卓を囲んでランナーとスタッフが交互に座る。全国からやってきた様々な世代のランナーと、鶴岡市という地元に根を張って生きる若者たちが酌をしあう。お世話をする側とされる側の間に仕切りがない。宴会の席の配置ひとつとってもコンセプトが貫かれた素晴らしい大会だと改めて思う。若いスタッフからは、いろんな地元事情を聞かせてもらった。ぬかりなく名物スイーツ情報も教えてもらいメモした。
やがて選手ひとりひとりの名が呼ばれ、ステージ上に招かれる。100km完走した人も、11時間コース上でがんばった人も、赤ら顔を満足そうに緩めている。
11時間内に100kmに達したのは5名。ぼくは完走できなかったものの、未完走者のうち最初に90kmラインに到達したという6番目の成績を収められた。関門超えには1分10秒足りなかったわけだけど、われながら実力以上に走り、大変な健闘をしたレースであったな、と自画自賛しておく。
テーブルには、お腹を満たすに程よい料理が皿を変え何度も届けられる。山形の銘酒はじめお酒は飲み放題だ。好きなだけ走ったあとで、気のすむまで呑める。格別な一日だねぇ。
愉しい宴席が終わると、ホテル最上階の露天風呂へ移動する。浴槽からは鶴岡市内の夜景が一望できる。仰向けになって浴槽のヘリに後頭部をひっかけ、湯面に身体をぼやーんと浮かべる。今日1日で7リットルは汗かいたな。どの細胞にもアルコールがしみわたっていて心地よい。キッツいけど何から何までよい大会だったな。90kmアウトは来年またチャレンジするための布石としておこう。しかし部屋に帰るのが面倒くさいな・・・このままここでおやすみなさい。

【酷暑下で100km以上を走る対策について】
30度を超すと常にレロレロになり、コース上にいるより木陰で昼寝している時間が長くなりがちなぼくですが、鶴岡100kmでは日陰に設置された気温計で35度という酷暑の条件ながらも、最後までタレずに走りきれました。85km地点でふらつきと蛇行を起こしてしまいましたが、これは暑さというよりその直前に能力以上にペースアップしたことが原因です。10分ほど我慢していたら元の体調に戻ったので、長丁場レースなら諦めず、歩きを混じえながら体調の回復を待つべきだという教訓も残しました。何らかの危機的状況に陥っても「このまま際限なく悪化していく」とネガティブに考えなくてよいということです。
話を脇道にそらしますが、最近は実業団マラソンの選手や指導者からこんな発言がよく聞こえてきます。「夏のマラソンを走りきるには暑熱順化はたいして重要ではない。それよりもスタートラインにつくまでのコンディションづくりが大事だ」。真夏に行われる東京五輪や世界陸上を念頭に置いた発言です。全盛期の瀬古選手が五輪前に過剰な走り込みをして血尿を出し、本番で失敗したというエピソードも効いているのでしょう。
猛烈な陸上競技ファンのぼくとしては、憧れの選手や有能なコーチ陣らがそう発言していると思わず鵜呑みにしたくなります。「なるほど。暑いところで練習しすぎて疲労困憊になるよりは、まずは体調づくりね」とラクチンな道を選びそうになりますが、ぶるぶると首を振って否定をしなくてはなりません。
当たり前すぎることですが、彼らとぼくらは同じ「マラソン」という言葉を使ってはいても、実際はまったく別物の競技に取り組んでいます。トップクラスのマラソンランナーはキロ3分ペースで2時間10分の短期決戦をしています。一方、ぼくたちの土俵は主に一昼夜以上の徹夜レースです。ペースは昼間はキロ6分以上、深夜にはキロ10分まで落ちるのが普通です。日中、高温にさらされるのが朝9時から夕方4時までとしても7時間。もちろんその前後も、直射日光を肌に浴びつづけています。昼間に蓄積されたダメージは、日没後の暗闇のなかで襲ってきます。ボロ雑巾のように重く役に立たない脚の筋肉、絶え間ない吐き気と空ゲロ、どのような痛みも感じなくなるほどの強烈な眠気・・・。
このようなバッドな状態に陥らないために、たくさんの打つ手があります。トップランナーが否定する暑熱順化は、われわれにとっては最も重要なトレーニングです。
ぼくは人一倍暑さに弱く、またゲロ吐き常習者です。だからこそ、元から暑さに強いランナーよりはノウハウが積み上がっているかもしれません。自分を使って人体実験を繰り返し、灼熱の中でもコト切れない方法を探ってきました。
8月、9月からのウルトラマラニックシーズンがいよいよ開幕します。フルマラソンですらほとんど行われないこの真夏に100km以上のレースがたくさん行われるとは、まったくもって超長距離走者という種族はイカれた人たちです。次号では「暑さ最弱ランナーなりの涙ぐましい暑熱対策」をまとめてみたいと思います。

法事に着用予定で、何かと立ったり座ったりするため、動きやすいように大きめを選択して正解だったけど、ウエストが大きすぎてしまってベルトで調整できないのが残念。子供じゃないけど隠しボタン調節があったら良かった。ウエストのゴムは太めで履き心地は良いです。

【社会人2年目】<2008年(平成20年)24才>
介護は1年間の予定だったけど、現場に人がいなくて、どうやらこんなぼくでも人数として役立ててたみたいで、もう少し介護を続けられることになった。みんなとそれなりにうまくやる方法もわかってきてて、相変わらず無視されたりもしたけど、仕事には慣れてたから、介護を続けることは苦じゃなかった。むしろ、そのあと本当に介護の期間が終わったときにはさみしい気持ちと、これからどうすればいいのかよくわからなくて、不安だった。
介護からリハビリに戻って、リハビリの先輩のもとで本格的にリハビリの仕事をはじめることになった。でも、ぼくは相変わらず毎日のようにトイレに入って、オムツを変えて、食事介助をして、いままで通りに介護してた。なにをしたらいいかわからなくて、介護が人がいなくて大変ってことは身に染みてわかってたから、介護さんたちもなにも言わなかった。「ありがとうね〜」って感じ。
唯一注意してくれたのが施設ケアマネさんだった。ぼくが書くリハビリの計画書は介護のことばっかで、リハビリのリの字もなかったから、「これじゃ介護の計画書だよ」って言われて、ショックだった。なにが介護でなにがリハビリなのか、よくわからなかった。リハビリの専門性って言ってくれたけど、専門性ってなんなのか、リハビリってなんなのか、全然わけわっさんだった。
お年寄りは生きてるし、リハビリがなくても元気だし、トイレでちゃんと立ててるし、車いすにも座ってる。ご飯も食べてる。元気がないひともいるけど、もういい年だし、わるくなるのは当たり前だし、わざわざリハビリでがんばって立って、何になるの?毎日座ってるのになんで座る練習するの?なんでフロアでリハビリしないで、見慣れないところでリハビリするの?不安がってるじゃん。「大丈夫だよ」って、大丈夫じゃないんだよ。リハビリって、違和感がありすぎて、よくわからなかった。とりあえずケアマネさんに怒られないようにそれっぽく書いておいたけど、リハビリは意味不明だった。自分がリハビリ職員であることが、どうにも受け入られなかった。
先輩の仕事を手伝ってるときは、自分は作業療法士だった。先輩は学校ではじめのころ習った通りの、いわゆる作業活動をやってた。塗り絵を渡したり、計算問題を配って丸つけしたり、ちぎり絵をやってもらったり、習字を準備したり。塗り絵で全部同じ色に塗るおばあさんを「きれいですねー」って嘘をついてほめてみたり、ぐちゃぐちゃに書いた字を「うん、力強い」って愛想笑いしたり、そんな自分が心地悪かった。つかれた。ぼくは介護をやってるときにその先輩のリハビリ風景を見てて、なんだか遊んでるように見えて、みんなが「リハビリは楽でいいよね〜」って影で言ってるのも知ってて、ぼくは自分もそう見られるのがイヤで、作業をやってるときは自分がわるいことをしてるような気になってた。こんなことしてていいのか、すごく疑問に感じてた。実際お年寄りも「目がわるいでいいにするよ」とか「手が痛いからうまくできない」って言う人が多くて、それを説得しながら、ごまかしながらなんとかちょっとでもやってもらう日々で、「みんなやりたくないのに、なんで年をとってまでこんなことやらせなきゃいけないの?」って、だんだん嫌悪感が大きくふくらんできた。お年寄りがつくった作品をお年寄りがいないところでこっそり直したりして、時間がかかって、その間はお年寄りにかかわれなくて、「この時間、なに?」「ぼくこんなことしにここにきたの?」この退屈な時間も、みんなは現場で介護してて、お年寄りを守ってトイレにいって、必死にやってるのに、こんなことしてていいのかなって…はやくみんなに会いにいきたかった。
そして、ぼくはまた爆発した。先輩と言い争いになって、先輩にひどいことをたくさん言った。こんなの意味がないとか、もっとお年寄りの喜ぶことがしたいとか、時間のムダとか、ちゃんと仕事をしましょうとか、日頃思ってたことをたくさん言ってしまった。でも、あんまり後悔はしてなかった。自分がわるいとは思ってなかったし、お年寄りのためにも言ったほうがいいと思ってたし、とにかく、もっといいことがしたかった。それからぼくは作業活動をやらなくなって、小さい集団をつくって体操をしたり、相変わらず介護をしたりして過ごして、間もなくして、ぼくは病院に異動することが決まった。
施設の母体の病院が作業療法部門を新しく立ち上げるって話になってて、ぼくに話がまわってきた。先輩とこんなことになっちゃったし、離れられるならそれでもいいかなって、新しい環境で心機一転もいいかなって、上司が言うことだったし前向きに「いきます!」って答えた。作業療法士が1人じゃ少なかったから、新しく2名作業療法士を募集して、合計3人体制で立ち上げる予定だった。
でも、最終的に異動することになったのはぼくじゃなくて、先輩になった。一緒にいく予定だった2名の作業療法士の話もなくなった。なんでぼくじゃなくなったかって、もしぼくが病院にいってたら、かなり高い確率で騒ぎを起こす。寝たきりの人を車いすに座らせたり、オムツの人をトイレに連れて行ったり、抑制ベルトを外そうとして、大暴れして、大きな問題になる。誰かと喧嘩する。それは非常にまずい。新しく来る作業療法士がそんなことをしたら、作業療法部門がおかしくなる。いわゆる作業療法士らしく働ける先輩のほうが向いているっていう判断だった。妥当だったと思う。ぼくは病院にいく!って燃えてたし、いくからには喧嘩してでも病院を変えてやるんだ!って意気込みだったから、絶対誰かと対立してた。ぼくはそんな方法で仕事してくことしか、しらなかった。
結局、認知棟のリハビリはぼく1名と、病院にいくはずだった2名のうち1名とでやることになった。そして、三度ぼくは失敗した。新しく入った作業療法士の子がいたんだけど、ぼくはほとんど放置してた。自分の勉強は自分でするもんだし、現場に入って必死にやれば勝手にどんどん覚えていくし、ぼくはそうやってきたし、ほうっておいた。一年後、その子はまったく成長していなくて、上司に怒られた。怒られて、やっと気づいた。「あ、これってぼくの責任だったんだ」って。ふかく反省した。ぼくは自己中だったから、自分がよければそれでよくて、その子のことは考えてなくて、好きにやってくれればよくて、どんどん自分で学んで成長してくれればよくで、その考えがわるかった。結局その子はぼくにはあずけておけないってことで、上司が直接面倒をみることになった。その子には本当に申し訳ないことをしたと思っていて、それ以来あんまりかかわりたくなくなった。自分のせいってしっかりわかってて、顔をみるたびつらかった。ひたすら申し訳なかった。

【小学生 低学年】<1991年(平成3年)7才〜1993年(平成5年)9才>
小学校1年生。はじめての教室。はじめての人たち。ぼくはすごく緊張してて、誰とも喋れずにじっと席に座ってた。先生がやってきてちょっと話をして、ひとりひとり立って自己紹介することになった。先生は「じゃあ席が前の人からね、安藤くん」って言って、ぼくはイヤだったけど、緊張しながらガタっと席を立った。
「安藤祐介です」そう喋ろうとしたんだけど、声がとまっちゃって、喉が押しつぶされてるみたいだし、腹筋がギューッと締め付けられてるみたいで、全然声がでなかった。無理やり声をひねりだしたけど、「あ!」でとまっちゃって、困った!困った!どうしよう!?息を吐くことも吸うこともできなくて、ものすごく息苦しくて、どうしよう?みんなが見てるのに…どうしようって困って、このままじゃマズいから力まかせに声をだしたら「あああああああんどうです!よよよよよろしくお願いします!」ってなっちゃって、みんなに大笑いされた。ものすごく、死ぬほど恥ずかしかった。それからぼくは「ああああんどうおはよう!」ってクラスメイトからからかわれるようになった。みんなは笑顔で言ってたけど、ぼくはすごくイヤだった。恥ずかしかった。なんでぼくばっかこんなことになるのか、とにかくイヤだった。
国語の授業が大嫌いだった。本読みの時間があったから。みんなで声を出して読むときはみんな一緒だったからちゃんと読めたけど、段落から段落まで1人1人読むやつがたまらなく苦痛だった。自分の声がみんなに注目される。ちゃんと言わないとまた笑われる。しっかり読まなきゃ先生にも変に思われる。そんなのイヤだった。本読みの順番がせまってくると、イヤでイヤで学校をずる休みしたこともあった。でも、国語の授業は毎日のようにある。逃げきれなくて授業にでると「この前休んだ安藤くんから読んでね」ってこともあって「あぁ…神様はいないんだ」って思った。
小学校3先生のとき、自分が上手に喋れないのがイヤで、笑われるのがイヤで、担任の先生に相談したことがあった。そうしたら毎日やってる『朝の会の3分間スピーチ』で安藤くんの番のとき、みんなにその気持ちを言おうよってことになった。ものすごくイヤだったけど、このまま笑われ続けるのはもっとイヤだったから、勇気をだして、どもりながらもみんなの前で自分の気持ちを発表した。
「ぼぼぼぼぼぼぼくは、ううううまくしゃべれないけど、わわわわらわないでください!」って言えた。喋りながら涙が止まらなくて、言ったあともその場でずっとシクシク泣いてた。みんなシーンとしちゃって変な雰囲気になったけど、先生が拍手してくれて、そうしたらみんなも拍手してくれて、言ってよかったって思った。
朝の会のあと、ぼくのことをよくからかってた背の高い男の子がやってきて、「安藤わるいっけな、お前そんなイヤだったなら言えよ!」って背中をバシって叩いてくれて、まだシクシク泣いてた。(このドモリが吃音症っていう失語症の一種だとわかるのは、まだずっと先。大学4年生のころ。)
自分がみんなと違う。おかしいってことには気づいてたから、母親に相談したこともあった。それでどこかの小学校でやってる「言葉の教室」っていうのに通うことになった。言葉の教室じゃ先生と一緒にパズルをやったりオセロをしたりトランポリンしたりして遊んで、言葉が変だったから通ってるって思いはなかった。ただ通ってて、あんまり通っている意味もわからなくなっちゃって、途中で「もういいにする」って行くのをやめた。
ほかにも母親は、ぼくのドモリを治すために催眠療法にも連れてってくれた。ぼくはおじいさんみたいな先生に暗い部屋に連れていかれて、ソファーみたいなイスに座らされた。ときどきライトがパッとついたり、先生に「右手があたたかい」「左手があたたかい」って言われたらほんとうにあたたかいような気がして、「ほーーーー」って息を長く吐くように言われたからその通りにやったりしてた。上手にできてるか心配だった。よくわからないうちに眠くなって、気づいたら一時間くらいたってた。終わると先生が母親に「よく効いてますから…」みたいなことを言ってて、母親はお金を払ってた。ぼくは心配になって「お金たかい?」って聞いたら「一万円くらい」って母親は答えて、申し訳ないと思った。何回か行かせてもらって、お風呂のなかで喋る練習をしなさいって先生に言われてたからしばらく続けてたけど、父親には「お前風呂でなにやってるだ!」って言われたり、学校じゃ相変わらず喋れないままだったし、ぼくに高いお金を払ってくれてるのが申し訳なくて、自分からやめるって言った。
父親はぼくのドモリをきくと「男はそんなんじゃだめだ!」「お前ちゃんと喋れ!」って怒ったから、父親の前で喋るのはすごく嫌だった。怒られないように、喋れそうな言葉だけ喋ってた。父親の前ではちゃんとした子供でいないとダメだった。国語の授業の前の日、ぼくがうまく喋れますようにって神様に祈ってるのを父親に見られたときは、「お前、そんな弱いことでどうするだ!」って怒鳴られて、悲しくて涙がこぼれてきた。頭の中が真っ白になった。こんなぼくはダメだって思った。いつだったか忘れたけど、母さんは洗濯機の前でひとりで泣いてて「祐介ごめんね」って言って、ぼくは「お母さんのせいじゃないよ」って言いながらお母さんの背中をさすってたのを覚えてる。母の日になると、少し遠くの無人販売の花屋さんまで歩いていって、100円を箱に入れてカーネーションを買って渡した。
父親は怖い。ぼくが夜にトイレに起きたりすると「昨日お前がうるさくて寝れなかったわ」っていうから、トイレは我慢した。どうしても我慢できない日は、ほんとうにこっそり、こっそり、ミシミシ音を立てないように廊下を歩いて、おっしこをして、水は流さずに布団に戻った。怒られるのがイヤだった。次の日に父親に何も言われないと、心から「よかった」って思えた。
みんなが自転車に乗り始めたころ、ぼくもみんなより少し遅れて自転車に乗れるようになった。黒っぽい、電車の絵がついた自転車を買ってもらった。でも学校の先生が「危ないから家で自転車に乗らないように」って言われてたから、ぼくはそれを守って三輪車に乗ってた。あるとき、ぼくは3人の友達と少し遠くの公園まで出かけることになって、集合場所にいったらぼくだけ三輪車で、2人は自転車を持ってきてた。学校の先生がダメって言ったじゃんって言ったら、「そんなの大丈夫だよ」って言って、どんどん自転車で行っちゃった。ぼくは追いつきたくてすごくたくさん漕いだけど三輪車は全然すすまなくて、途中で走っていこうとしたけど三輪車が無くなったらいやだからそれもできなくて、結局途中の道であきらめた。ひとりで大泣きして、みんなずるよって思って、家に帰った。
あるとき引っ越しをして、住所が変わった。引っ越しってなんとなくわくわくして、「家が変わるんだー」ってすこし楽しみに思ってた。母親に連れられて、いろいろな家を見にまわった。学校が変わるかもしれなくて、それについて母親に聞かれたから「学校はそのままがいい」って言った。同じ学区内の引っ越しになって、すこし安心した。引っ越しをしてから、仲が良かった「農家のゆうすけ」とは遊ばなくなった。はじめは通ったりしてたけど、なんとなく心が離れてしまって、学校であっても「おぉ久しぶり」って声をかける程度の関係になった。気恥かしくて、よそよそしい感じがした。
クラスに仲良しの友達がいて、ミっちゃんっていう笑顔がよく似合う男の子だった。いつも半ズボンで、足が速くて、絵も上手だった。その子とは休み時間のたびに遊んで、ミっちゃんはよく仮面ライダーとかのキャラクターを書いてくれてた。「これがアンちゃんね」っていって、ぼくのキャラクターも書いてくれて、○の中に線で目と口とかが書いてある(いまのあんぽんまんのモデル)、決してかっこよくない奴だったけど、ぼくはミっちゃんが書いてくれたから気に入ってた。2学期の最後、一緒に家まで帰ってて、いつも別れる交差点のところでぼくは「ミっちゃんまた遊ぼうねー!」って言った。そうしたら、ミっちゃんはいつも笑顔で手を振ってくれるのに、その日だけは背中を向けて走っていっちゃった。「あれ?どうしたんだろう?」って思ったけど、ぼくはそのまま家に帰って、ミっちゃんを見たのはそれが最後だった。三学期学校に行くと、先生がミっちゃんは転校しましたって言ってて、「え?どうして???」って思ってぼうぜんとした。ミっちゃんとあんなに仲が良かったのに、ちゃんと挨拶もしてくれなくて、でもミっちゃんは言いたくなかったのかなって思って、さみしい気持ちでいっぱいだった。それからひとりきりの帰り道が、すごくさみしくなった。