首に浅い溝のようなものがあります 中学3年の女子ですが生まれた時からずっと
いつも楽しく拝見しています。
今回の記事のおかげで疑問が解けました。
栗原中学校の芹沢方面の裏門の先、階段を下りていった先に米軍施設があります。その米軍施設へと続く階段の入り口と栗原中学校の間の道路に、直径20センチほどのマンホールがあります。そのマンホールには「制水弁」と言う言葉と一緒になぜか「USA」と刻印されているのです。散歩の途中に発見し、一体なんだろうと疑問に思っていましたが、なるほど、水道施設だったのですね。
これからも楽しい記事お願いいたします。
私も子供の頃から、3本ほど首にしわがあります。
小学校6年生のときに3年生から似顔絵を書いてもらう
と言う事があったのですが 私の似顔絵はみんな、しわがありました(笑)
太っていたわけではないんですよ。
現在34歳。今からでもすっきりさせる方法はないでしょうか?
河川汽船部は五千人の人員と保有船舶110隻の陣容であったが、この盛況も、図佳線(中国北朝鮮国境の町図們と佳木斯を結ぶ鉄道)の開通と満州国建国(1934年、昭和9年)により阿片取締りとケシ栽培が禁止され急速に衰微していった。
関東軍はこの肥沃で広大な土地と二荒地(一度開墾され放置された土地)に着目して、日本から開拓農民を入植させることを計画(20ヵ年100万戸500万人、開拓青少年三万人を含む)、武装農民(屯田兵)を試験入植させ、その結果、開拓農民の入植を実行した。
満鉄でもこの計画に合わせて、1932年(昭和七年)図佳線(図們ー佳木斯間580粁)の敷設を計画、一九三四年(昭和九年)三月着工、一年半後の1935年(昭和十年)十月開通、営業を始めた。
図佳線と濱綏線(哈璽浜ー綏芬河)の交差を牡丹江でする為、濱綏線の一部を付け替え、牡丹江駅を新設した。 図佳線の開通により、従来佳木斯に行くのにハルピン経由、水路で三日を要したのが、全天候、冬季無休で一日で行けるようになった。
図佳線の開通により日本及び朝鮮からの移民は(敦賀ー清津)図們ー牡丹江ー佳木斯のルートで人員輸送をし、入植させた。この入植者達の子弟が、冒頭で述べた残留孤児になったのである。
軍は、入植した開拓農民を兵員確保が最優先であるとして、随時、随意に召集と解除、徴用を繰り返していた。
詳細は不明(軍事機密)だが、終戦時旧満州在留邦人は約132万人(開拓農民約27万人を含む)だったと言われている。
又残留孤児の総数は三千人とも八千人とも言われているが正確な人数は分からない。
幸いにも日本に引揚げて来られた方方、生きて孤児になられた人々の幸多かれと祈るのみである。
一九一七年 (大正六年)のロシア革命の粛清からのがれて一部のロシア人達はシベリア鉄道に乗って中国東北部へと逃れた。 その数約一二万五千人といわれ、中国に入ったこれら「白系ロシア人」は主としてハルピンに、他は牡丹江、横道河子等鉄道沿線に落ち着いた。満州事変(一九三二年、昭和七年)を機にこれらロシア人達約十万人はアメリカや日本に去って行った。
今中国東北部には双鷲旗も日章旗も無い。五星紅旗が翻っているだけである。中国東北部の人達の平和を祈る。
終わりに私達牡丹江中学校同窓生諸兄は、一時期満洲の地で、夢と希望に胸を膨らませ熱い血潮を燃やして学んだ。 そして、懸命に生き、命を懸けて生きて日本に帰って来た。
月日は流れて幾星霜。 今、「交浅言深」諸兄のご多幸を祈る。
来年三十路を迎える私、首にシワが出ていないんですよねぇ。なんでだろう???童顔だし「私27ですぅ」とか言っても世の男性を騙せちゃうかも。
特別なケアは何もしていません。(たまに余った化粧水を叩き込むくらい)
やせていて、首は長い方です。
今後の予防策のためにも、ぜひ首のシワの原因が知りたいです。
戦後の学制改革による新制中学の三年に編入されたのは昭和二十二年五月のことだった。
旧満州から引揚げの身であり住居とてある筈もなく、農家の納屋に一家五人が、それこそ雨露を凌げるだけでも満足せねば、の状態だったが、さすがに剥ぎ出しの屋根裏を眺め、土間に筵にはこたえるものがあった。
戦前、「ホイトさん」と言われた人達が、こういう小屋で這いつくばり、お米を恵んで貰っていた影が重なったせいもあり、年頃だった姉達がたまらず啜り泣いていたのを苦く想い出してしまう。更にはここ迄零落した情けなさを泣くに泣けないお袋の胸は察するに忍びない。
が、とにかく折角生きて故郷に辿り着けたことだけでも、よしとせねばなるまい、ということで喰うのが先決となる。
そこで当時、米の配給などもあると言われた保線区の工夫に、否やを問わず入れられたのは当然である。
季節は青葉の五月、丁度山菜の出回る頃だったから、線路傍に群生していた蕨、蕗、ミズナなど手当り次第だった。お浸しにしてもりもり喰っていたのが懐かしい。
ところが根が貧弱、虚弱の本家本元ときては、とても労働にはついてゆけず、よりダメージが大きかったのは稀代の運動不適正、つまりどうしてもトロッコに飛び乗れずのオタオタぶりに、さしもの工夫長があきれ返ってしまい、これは使い物にならん、ということになり、工夫長自ら転職を世話して下さったのだから恐れ入る。
製材所の事務見習いという給仕になったのが、一つの転機、ここで人生の変り目「あざなえる縄」の実体験を悟らされた。
工場長の一人娘が、末の姉と同じ年で無二の親友であり、本人が又弟さんの同級ということも重なり、主人のたっての厚意の学校生活に戻れることになったのである。
全く世の中、そう見限ったものでなく守護神は何処にいるか分からない、少年の心に深く銘記されている。
栗原中学校から芹沢へ下るゆるやかな坂道の途中に十字路があります。そこには昔、恐ろしい「なべっつるし」というおばあさんがいたという話があります。
なお、このページの最後に重要な話が載っていますのでそこまで読んで下さいね。
福留 健 (四期生)
私は、1931年旧満州瓦房店で生まれました。そこで3年保育の幼稚園に通い、小学校は大連の日本橋小学校に進み、4年生の時、牡丹江の聖林小学校に転校、昭和18年(1943年)牡丹江中学校に進学しました。
昭和20年(1945年)8月9日は、林口の先の開拓団に食糧生産と言うことで勤労奉仕に行っていましたが、ソ連軍の攻撃に逢いながら牡丹江に帰り着いたのは20年8月11日の昼でした。
その時、牡丹江では既に一部避難が始まっていましたので2日分の食量を持って、牡丹江機関区引き込み線から満鉄社員家族の最終避難列車に乗り、ハルピン、新京を経由、吉林に着いたのは13日でした。
そこで15日終戦の報道を聞きました、食べるものなし、着るものなし、住む家なしで、私を頭に兄弟5人と母、計6人の苦難の生活が始まりました。
日本の佐世保に着いたのは、昭和21年9月11日、鹿児島に帰り着いたのは9月13日でした。
そこで初めて踏む鹿児島の土地の感触、独特の方言、爆撃で焦土と化している土地。生まれて以来15年住んでいた満州との生活環境の差異に驚きました。
牡丹江中学同窓会が存在しているのを知ったのは61歳の時でした、そこで生まれ育った中国を見直そうと中国には5回、牡丹江には2回行きました。
牡丹江中学で習ったシナ語を基礎にして、会話も勉強しました、現在検定3級です、準2級をとれば通訳になれるので現在も毎週習いに行っています。
こんにちは。
私も中学生(13歳)の時に首にしわができ、母親が驚いて原因を探りました。
結果、枕を新しいもの(結構高さのある枕)に代えたばかりだったことに気付き、元の低いものに交換しました。
しわが残ってから(中学生時代から)、お風呂上りに首のも化粧水・乳液を塗り、外に出るときは日焼け止めを欠かしません。
しかし、一度ついてしまった首のしわは消えることはなく、あれから15年たった28歳の私ですが、首のしわはうっすら残っています。
枕の高さ、合っているか確かめてはいかがでしょうか?
こんにちは。
先生なら、このニックネームで誰だか分かると思いますが…
中学校生活での一年間、お世話になりました。
ありがとうございました。
これからも、先生らしいポジティブな授業で、皆に理科の世界を伝えてあげてください。
はじめてのコメントです。ずっと楽しみに見ていました。
今度、栗原中学に仕事でお世話になることになり、あのグランドに不思議な道が出るのが見れるかとわくわくしてます。
自分の住んでいるさがみ野は飛行機が作られ、あの桜並木が滑走路だったとか、、、。
芹沢公園の防空壕の話や、日蓮の話、そのほかにもたくさん座間にはいろんなことがあるのですね。
これからも楽しみにしています。