僕は見た目は太っていないんですけど頬の内側に肉があります歯のよこに肉がく
瀬古 元来は明るいんですよ。ただ、中村先生からは、「お前、しゃべるな。しゃべると力が逃げる。おしゃべりなランナーでロクなのはおらん」と言われてましたから、寡黙にならざるを得なかった。今は仲間とジャズのビッグバンドを作って、「瀬古利彦とパンキーズ」と称して、マラソンのゴール地点や震災の被災地で演奏しています。僕はドラムスとボーカル、それとしゃべりをやってます。
だからいざ取り掛かると、自分の能力を顧みなかったツケが波状的に押し寄せてくる。それが商売ならば、目論見はことごとく外れ、作ったものは売れ残り、目も当てられない数字が並ぶ。それが人間関係ならば、大切な人ほど去っていき、育てた人にはあんたバカねと呆れられ、人を信じて貸した金はその人とともにどこかへ消えていく。
歳をとるごとに、持ち前の忘れっぽさに拍車がかかり、失敗しても失敗しても、失敗したことを3日で忘れるので、すぐまた「次はうまくいきそうだ」と未来を夢見て楽しい気分に浸る。そしてまた船を漕ぎ出すと、水漏れがはじまり「あーあ、こんなこと自分にできるはずないのに」と櫂を投げ出してしまう。
さてランニングにはその人の性格が表れるというが、本当にそうだなぁと思う。特に1日じゅう走っているウルトラマラソンや、何日間もぶっ通しのジャーニーランでは、人間性そのものが噴き出してしまうので、まったく僕にとってはよろしくない。
暑さ寒さに弱く、痛さ辛さから逃げまわり、「やってはみるけどすぐにあきらめる」という人生の価値観がモロに出てしまう。足を引きずり、シャツやシューズを血染めにし、それでもゴールを目指しているランナーがたくさんいるなかで、僕は足にちょっとだけマメができたくらいでバス停の時刻表をチェックしては、ほどよい時間にリタイアする計画を立てている(200km以上の大会では収容バスは回ってこないので、自力でどこかに帰り着かなくてはなりません)。
2017年もそろそろ終わりが近づいてきた。今年こそすべてがうまくいくと1月頃には血気盛んに高ぶっていたが、振り返ってみれば、何もかも失敗づくしであった。過去から一切学ぶ姿勢のない自分の軽薄さを、年末の今だからこそ省みようではないか。
身をすくめながらも、僕はスマホに囁く。
46億年の歴史がある地球で、たかだか10万年生き長らえただけのホモ・サピエンスが覇王気取りなのはおごり以外の何物でもない。それに10万年どころか、近代文明に属する人間が地球のあらましを目撃しだしのは、たかだか500年前からなんである。
ヨーロッパ人が北米大陸に到達したのは1492年、オーストラリア大陸へは1606年。全大陸の形を大まかにとらえた世界地図が初めて描き上げられたのは1500年代後半から1600年代中盤にかけてのメルカトルやブラウの時代だ。この頃になって人類はようやく、地球全体の土地と海がこんな形になっているという認識を持った。
それから400年後の1969年、地球以外のよその天体である月にアームストロングとオルドリンが降り立つ。地球の重力圏を離れた星に人間が初上陸するのは、次に火星と大接近する2035年だろうか。
人類の悪行はとりあえず置いといて、近代史500年は輝かしき探検と冒険の歴史でもある。新大陸発見をメインイベントとして、大陸の先っぽを廻り込める新航路や、運河を掘れる地峡の発見は、西欧型の文化や思考を地球の隅まで拡げるのに役立った。
経済的利益を求めた探検の時代は、大陸と航路を見つけ終わると徐々に終焉する。すると探検はアドベンチャーと呼ばれだしスポーツ化していく。北極点、南極点、世界最高峰への到達は、名誉と名声を懸けて行われた。これらモンスター級の目標物を攻略すると、人々はバリエーションを競うようになった。無酸素、無補給、無寄港はいいとして、最高齢、最年少、女性初、女性最高齢、少女初・・・と細かくなってくると、値打ちがあるんだかないんだか、よくわからない。
大雑把に言えることは、ヴァスコ・ダ・ガマも三浦雄一郎もイーロン・マスクも、みな他人に誇れる「人類初」のポジションが魅力に映っているってことだ。
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これら偉業をなしとげる人類の皆さんとはまったく縁遠い、四国の田舎の片隅で、高校2年生の僕は壮大な遠征計画を立てていた。
ローラースケートによる四国一周、である。自転車で四国一周した人は数えきれないほどいるだろうし、一周に等しい八十八ケ所巡りのお遍路さんは歩きが基本。でも、ローラースケートなら前人未到に違いない・・・というスキマ狙いの着想である。
草刈りのバイトくらいしかしてない16歳に貯金はあまりないので、一流メーカー物のローラースケートは買えない。そこでチャリ通学途中にある怪しい品揃えのホームセンター・・・戦国武将の鎧甲冑や、中世ヨーロッパの剣、ツキノワグマの剥製に数十万円の値札をつけ堂々と陳列しているような、いわゆるバッタ物屋にて入手した。メイド・インどことも書いていないローラースケートは、2980円とお求めやすい価格であった。
冬休みが明けると、放課後はローラースケートの練習に充てた。今も当時もローラースケートなんてやっているのは小学生までが相場であって、高校生にもなってシャーシャーと道路を走っているのは恥ずべき行為であったが、「人類史上初の冒険」というお題目が羞恥心を消した。
特訓3カ月。3学期の終業式を終えて午前中に帰宅すると、あらかじめ用意してあった荷物をリュックに詰め込み、すぐさま家を出た。リュックの中身はこれらだ。
・寝袋(1980円)は先ほど説明したバッタ物屋で購入。
・ヘッドランプ(3000円くらい)は、徳島大学常三島キャンパス前にあった「リュックサック」という登山用具専門店で購入したちゃんとした登山メーカーのモノ。
・防寒用の毛糸の帽子(マネキで買った安物)。
だけである。こういう長期間の旅に何が必要かは、考えてもよくわからなかったのである。地図すら持ってはいない。
阿南市内にある自宅からは、国道195号線をひたすら西へ西へといけば高知市に着くだろう、という当てずっぽう。とりあえず道路標識に書いてある「鷲敷」を目指すことにした。
「ああ、今から僕はどうなってしまうんだろう」などと人生初の冒険旅行に心打ち震えていたのは最初の10分である。出発して1kmもしないうちに登り坂がはじまり、自分に陶酔する余裕はなくなる。ゼエゼエと息は荒く、汗だくになるのだが、ローラースケートはぜんぜん登り坂を進まないどころか、足を休めると後ろに下がっていってしまう。バッタ物屋で買ったローラースケートは片足1キログラム以上はあって鉄ゲタのように重く、着地のたびにガチャガチャとうるさい。
思えばローラースケートの特訓は、近所の平坦な道をシャカシャカ転がしてただけで、登り坂の練習なんて一度もしていなかった。
それでも地味に30センチずつ前進し、周囲の景色が山だらけになってきた頃、ふいにローラースケートの底がガリッと音を立てて地面につき刺さり、つんのめってコケそうになる。下を見ると、なんと片側の車輪が取れているではないか。
ちょちょちょい! 壊れるん早すぎるって! まだ家から5kmも進んでないって!
外れた車輪を力ずくで車軸にねじ込んでもグラグラしていて、走りだすとすぐに外れてしまう。修理をする工具など用意しておらず、仮に工具があったとしても、車軸からポッキリ割れているので修理しようがない。想定全長1000kmに及ぶ旅は、わずか5kmで頓挫したのである。
壊れたローラースケートを道ばたのバス停に置き去りにし、僕は走りだす。とつぜん「前人未到の偉業」がついえてしまい、どうすればいいかわからなくなり、走るしかなくなったのである。
旅をやめるという選択肢はなかった。春休みはまだ10日以上ある。目標はないけど、どこかに向かって進むしかない。
ローラースケートを捨てると身軽になり、苦悶していたさっきまでと打って変わって、坂道をぐんぐん登れる。阿瀬比トンネルを抜けると道は平坦になり、気持ちも落ち着いてきた。旅ってけっこう楽しいんでない? 僕は変わり身が早いのである。
鷲敷と相生の街を抜けると、すれちがう小学生たちが物珍しそうな顔でこっちを見ては「さようならー」と挨拶してくれる。
道ばたの田んぼのあぜ道で、おばあさんが中腰のままスボンを膝までおろし、股の間から後方にシャーッとオシッコをはじめる。女の人の立ちション姿は生まれて初めて見た。
自宅からたった数時間移動しただけで、別の世界にやってきたかのようだ。
憧れの人たちと自分を重ね合わせる。冒険家・植村直己は犬ぞりで北極点を目指し、22歳の上温湯隆はラクダを引いてサハラ砂漠を横断しようとし、青年藤原新也はカメラ片手にインドを放浪した。そして16歳の僕は今、相生でおばあさんの野ションを見ているのだ。「これが旅というものなんだ」と感動にひたる。
川口ダム湖を過ぎると、夕暮れに空が燃えていた。
後ろから脇を通り過ぎた軽自動車が急ブレーキを踏み、路肩で停まった。左右のドアが開くと、高校の同級生の福良くんが顔をのぞかせた。運転席から下りたのはお母さんのようだ。
わけのわからない旅に出た同級生の心配をして、50kmも車を走らせて探しあててくれたのだ。
「これ持っていき」とお母さんが差しだした袋には、ジュース2本とお菓子とバナナ1房が入っていた。
「ほんまにこんなところまで来たんか。死んだらあかんぞ」と福良くんは言う。
「死なんだろ」と僕は答える。
福良君とお母さんは長居することなく、車をUターンさせて帰っていった。さみしい気持ちになって車が消えるまで見送った。
川口ダムから西は民家が少なくなり、完全に日が暮れるとすれ違う人もいなくなる。街灯のない暗い夜道を走っていると、お母さんが去り際に残した言葉が頭にこびりついて離れない。
「このまま高知に行くんだったら、木頭を越えた所にある四ツ足峠でトンネルに入るんやけど、ほこには虎が出るけん気をつけて」
意表をついた情報に、ぼくは「トラ?」と聞き返したが、親子はうなずくばかりで何も答えてはくれなかった。
(日本に虎やおるわけないでえな)と常識ではわかっているのに、頭の中には黄色と白のシマシマ模様で、牙をむいて迫ってくる虎のイメージが、どんどん輪郭を強めていく。
街灯ひとつない漆黒の国道195号線。
目を開いても閉じても、なんにも見えない深い闇のなか。僕は虎の恐怖におびえて背中に冷たい汗をかきながら、重いバナナを1房抱えて走り続ける。 (つづく)
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(最近のできごと)7月、みちのく津軽ジャーニーラン(青森県)、188kmの部に出場。初開催から3年目だが、263kmの部と合わせると350名が出場するという、200kmクラスの超長距離レースの大会としては国内最大級の規模に成長している。188kmの部は、弘前駅前公園を朝6時に出発。制限時間は38時間で、翌日の夜20時までに弘前市内の大型ショッピングモールの玄関に用意されたゴール(目立つのでまあまあ恥ずかしい)に戻らなくてはならない。
レース当日は、早朝から雲のない日本晴れ。コース上に日陰はなく、直射日光がお肌をチリチリ。左右対称の完璧な三角錐を描く岩木山のフチをぐるりと廻り込み、38kmあたりで白神山地の麓にある観光用の遊歩道へ足を踏み入れる。昼には気温33度まで上昇し、決壊したダムのごとく汗がドバドバ濁流となって落ちる。序盤にして暑さにやられ、早くもグロッキー状態。白神の森を抜け出した所でバッタリと仰向けになって天を仰ぐが、寝ていても何も進展しないのでノロノロ起きてまた走りだす。
55kmでいったん日本海に面した漁港へ出て、すぐに内陸へと再突入する。青い稲穂が揺れるだだっ広い平野を貫く一本道を、太陽に焼かれながら北上する。90km付近から海のように広大な「十三湖」の湖面が右手に。ここはシジミの名産地だけど、シジミ汁を出してくれる有名店は夕方早々に店仕舞いしていて、何にもありつけはしない。
日がとっぷり落ちた夜8時過ぎ、104kmの大エイド「鯖御殿」に着く。ここは食事スポットでカレーライスや筋子丼など、工夫を凝らした地元グルメを用意してくれている。しかし疲労からか、何も喉を通らない。
コースの半分を過ぎ、残り78kmしかないので、ぼちぼちお気楽ムードに浸ってもよさそうなもんだが、そうは問屋が卸さない。大エイドを出てからゲロ吐きがはじまると悪戦苦悶。朝から腹に入ったのはメロン2カケとガリガリ君の梨味2本くらいで、ゲロ吐きによって更にエネルギー供給が止まり、ハンガーノックに陥って脚が動かない。人目のつかない道ばたで、潰れたカエルのようにみじめに地に伏しては「5分だけ、10分だけ」と休憩時間を延長しつつ、夜道をさまよう。
朝日がのぼると灼熱びよりは相変わらずで、木陰のない道にできた黒い自分の影を追いながら、魂の抜けた屍となってふーらふらと進む。
黒石駅前のレトロな街「中町こみせ通り」は、藩政時代に造られた木造のアーケードが印象的。ここで177km。エイドで黒石名物「つゆ焼きそば」を出してくれ、レース始まって以来の固形物をとると、胃の中でエネルギーが炸裂し、急に足が回転しはじめる。って今ごろ絶好調の波が来るなよ。残り10kmしかないんだよ、手遅れでやんす。
けっきょく188kmに31時間27分もかかってしまったが(目標は28時間)、参加150人のうち15位と順位はよろし。みなさん暑さに潰れたのでしょう。
ゴールすると、スタッフの方が「(エイドの食事用に用意していた)筋子が大量に余っていて、白米はないんだけど欲しい?」というので、ショッピングモールのスーパーに駆け込みパック入りの白ごはんとビールを調達。見たこともない巨大な筋子を乗っけて、米に食らいつく。しょっぱい筋子が喉を落ちると、塩分が抜けきった全身の細胞に、血流に乗ってドクドクと運ばれるナトリウム。「塩しびれるー!」と叫ぶ僕を、距離を置いて取り巻いていた子どもたちが、怪訝な目で眺めていた。
今でもわが国で使われる「スパルタ教育」「スパルタ指導」など厳しいしつけを意味する言葉は、2500年前に都市国家スパルタで行われた幼児教育や軍事鍛錬をルーツとする。たとえば産まれた直後の男児をワインで洗い、痙攣を起こした子は強い兵士になる見込みがないと、実の親が崖から投げ落として殺すほどであった。7歳には軍人としての教育がはじまり、生き残ると12歳から30歳までフリチンで生活させられる(理由は不明)。思春期にずっとフリチンとは同情する。
その厳しさたるや、コンプライアンスに反するとみれば国民から袋叩きに会い、ウケ狙いのバイトテロするだけで個人情報丸はだかにされ、ちょっと浮気すると総人格否定が行われる、現代の日本国に匹敵するハードボイルドな国家だったわけだ。
2500年の紆余曲折をへて、現代のスパルタ市はワインやオリーブオイルの生産が盛んな、いたって平和な避暑観光地となっている。
さて僕はこのスパルタスロンに連続8年にわたって参加し、目も当てられないほど惨めなリタイアを繰り返している。その敗戦史をたどってみよう。
しかしまあ、学歴も燃費も詐称はいけませんが、そんなこと言ったら日本車って、カタログ燃費の表示通りに走ることはそもそも可能なんでしょーか?????会社で社用車導入するときに7年分の経費を積算してみるのですが、仕方ないので10・15モードの現在は、燃費を8掛けで計算しています。10モードの時はまだましで85掛けで良かったのにぃ。10モード以前は完全に理論値での表示でしたから10モードはある意味画期的だったのかもしれませんが、業界の圧力で10・15に変更されたとのこと。 しかーし、ヨーロッパ車はおおよそカタログデータとおり、状況によってはカタログデータを上回ることも有るのです 。フォルクスワーゲンには別件でがっかりしましたが、僕はすんでのところでパサート乗り換えちゃったのでよかったなーと。
集団の中でいさかいごとがあって、負けた人たちが追い出されたり、場に溶け込めない風変わりな人間が一人で荒野にさまよい出たり。男女の駆け落ちもあれば、オキテを破った者の逃亡もあるだろう。
もろもろ理由のいかんを問わず、人類という大きな種族のかたまりは移動に移動を続け、アフリカ中央地溝帯の南のはしっこあたりから南米パタゴニアの隅っこまで、3万5千kmほどの道のりを歩いて旅することになる。
サルから人間に近づくまでに10タイプくらいのヒト属種がいたけど、とりあえず僕たちの祖先であるホモ・サピエンスは、理由はわからないけど7万年前に、アフリカから北へ北へと歩きはじめた。アフリカから南米まで3万5千kmって途方もない距離なんだけど、7万年を平均すると、1年に500mしか移動してない。原始狩猟時代の先祖は、狩りのために1日20kmも30kmも走って動物を追い詰めたようだから、1年500mなんて距離は、自分が北上・西行したことにすら気づかない微々たる変化だろう。
ご先祖たちは、それまでの定住地よりも果実がたくさんとれる森や、おいしい肉をぶらさげているヌーやツチブタを追いかけながら、知らず知らずのうちに地中海とベーリング海峡を渡り、その先には荒れ狂う氷の海しかないマゼラン海峡にまで行き着いた。
厳しい旅で鍛えられた人類は、雨が1滴も降らない砂漠や、大蛇と大サソリがうごめく密林や、凍てつく永久氷床の上と、どんな環境にも適応し、地球という天体の陸地のほとんどを生存拠点とし、種の繁栄を実現した。こうやって、人類は偉業をなし遂げたわけだけど、先頭を切って移動をしつづけた人たちは、誰も「そうしたくて歩いていったわけではない」と思う。
よその家族の乾燥肉をかっぱらったり、ボスの留守中に嫁とちちくりあったりして、もろもろの悪さをした結果、石をぶつけられて集落から追われ、仕方なく5km先の洞窟で身を潜めて生きながらえた、といった「村八分」型の移動が多かったはずだ。移動の先陣にいたのはハグレ者なのだ。
集団を統率できる知性と身体能力に富んだ人は、7万年前でも女にモテただろうし、わざわざ集団を離れる理由はないものね。
だが逆に、長年にわたって少集団の定住が固定化されると、血縁者同士による交配が増え、おのずと健康上の問題が生じて、集団が危機に瀕することもあっただろう。
つまり人類は、近親交配による絶滅へのリスクヘッジと、酷暑・極環・風土病などの悪環境に適合していく尖兵役を「村から追い出されたヘボいヤツら」に託し、遺伝子を地球の隅々まで運んだことになる。
□
前置きが長くなったけど、僕が言いたいことはひとつなのだ。
「昔っから社会に適合できないバカは、遠くまで歩いていきたくなる」
これは、ひいひいひいひいひい3500回の爺さん、婆さんあたりから受け継いだ宿命であり、クセなのである。だから避けようがないのだ。
□
さて人類のお話から、僕個人の話に矮小化する。
僕の逃げグセはひどい。世の中の多くの人が真剣に向き合っている行事に対して、僕はマトモに取り組んだことがない。
大学には行ったけど1日でやめてしまい、就職活動といえばバイト面接以外は一度もしたことがない。嫌なことを耐えたり、我慢してやるという日本人的な感性を持てない。目上の人を敬ったり支えたり、目下の人を慈しんたり育てたりという道徳心がない。
今いる場所から逃げだしたい、遠くに逃げたいとばかり考えている。
精神病理学上はスキゾフレニアってやつ、つまり分裂病だ。昭和のニューアカデミズム用語でカッコよくいえばスキゾキッズ。要するに、閉じられた空間のなかで蓄積された成果や人間関係に自分の位置を見いだすことに価値を感じられず、既存の枠組みから逃走したくてしたくて、理由もなく病的にしたくてたまらない人のこと。
一方で、社会常識を推測する能力くらいはあるので、地の欲望を解放すると完全に無法者となってしまうのを理解している。だから、ふだんの生活では抑圧に抑圧をつづけている。平日には一般市民らしく行動・言動し、道路や廊下の隅をできるだけ小さくなって歩いている。
他人にはまず理解してもらえない逃避グセをガス抜きするために、週末にはウルトラマラソンの大会(100km~500kmほどを走る)に出たり、ひとりで数百km先まで走りにでかける。
これらは逃避の代償行為である。あくまで疑似餌であって、本当のエサではない。
自分にウソ偽りなく心のおもむくままに行動するのなら、行くあてもなく街を離れ、何の目的もなくさまよい、誰も知らない誰もいないところまで移動しつづける・・・のがあるべき姿である。
しかし、測位衛星がぐるぐる周回する現代の地球には、誰も知らない場所なんて1ミリもないのである。Google Earthにはチベットの山襞の1枚1枚、グリーンランドの氷河湖の1粒1粒まで詳細に映し出されている。そんな辺境に定住者はいないとしても、人間の目に晒されていない土地はもはやなく、今後もテクノロジーの進化が未知性を引き剥がしていく。
7万年前、村の決まりを守らずに棍棒で殴られ、土くれしかない不毛の地に追い出されたバカ男は、寂しかっただろうがトキメキもあったと思う。その先には何もなく、自分を抑えるものはなく、誰も知らないだだっ広い荒野が、あるだけなのだから。
僕はそんな村八分男の、ちょっとしたマネごとをやってみたいのである。 (つづく)
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(できごと) 6月、サロマ湖100kmウルトラマラソン(北海道)に出場。9時間切りをめざして序盤50kmを4時間26分08秒で入る。ところが「人は飢餓状態におかれると本来の能力が目覚める」という何かの本に書いてあったことを試すために、スタート時刻前の20時間メシを抜いたせいか、50kmすぎから超絶ハンガーノックになりふらふら。またベスト体重58kgに合わせようと前夜に宿のサウナで2kg絞り、おかげで目まいもひどい。あえなく撃沈し、結果は9時間49分39秒。皆さん、レース前はごはんをしっかり食べましょう。
【土佐乃国横断遠足・高知】(5月)
高知県の室戸岬から足摺岬まで土佐湾をめぐる242kmの道。川の道フットレースの514kmを走り終えてからの中2週間レストは、回復するには短すぎる。走りだした最初の1kmが515km目に感じる。クサビカタビラを纏ったかのように全身が重く、倦怠感がひどい。キロ7分でだましだまし進んでいた脚は、70km付近で反乱を起こす。「これ以上は走りたくないし、歩きたくもない、もう何もしたくない、帰りたい」。
すっかり嫌になって、高知龍馬空港の滑走路の先の道ばたに寝転んで、夕焼け空に離着陸する飛行機を(きれいだなあ)と下から眺めていると、20分ほどで心変わりが始まる。(せっかく走りだしたわけだし、10km先の桂浜エイドにはカツオの塩タタキがあるし、80km先の四万十町エイドには窪川ポークの生姜焼き定食が待っている。せめてそこまで歩いていこう)と思い直す。あんなに自暴自棄になってたのにさあ、食い物への欲求だけで立ち直れるものなのね。
この大会、各エイドやゴール後に出してくれる土佐食材を使った料理の味が格別なのである。さらには、道すがらにある売店やファストフード店に、高知でしか食べられないスイーツがあることを僕は知っている。
20km、30km先のソフトクリームやアイスクリンに誘われながら、2晩の徹夜を経て、3日目の朝に足摺岬に到着する。記録は47時間14分。ゴールすると大会スタッフの車に乗せられ、高台にあるリゾートホテル・足摺テルメのお風呂に送迎してくれる。ほこほこになった湯上がりの体に、土佐清水漁港でその朝水揚げされたばかりのカツオの刺身を生ビールで流し込む。うううっ、リタイアしなくてよかったー。
【川の道フットレース・東京~新潟】(5月)
太平洋岸から日本海までの514kmレース。スタートからわずか110kmあたりで体調がひどく悪化し、両手両足ガタガタ震え、口もきけないほど衰弱した。
時刻は深夜2時、場所は埼玉県の寄居という田舎町(設楽啓太・悠太の生誕地です)。動いている電車もバスもなく、このまま行き倒れるのかなとモウロウとしていた頃にエイドに着く。気がつくと顔が地面にくっついている。ぼくはどういう状態なの?
スタッフの方に導かれ、エイド車両の中に誘導される。シートを横倒しにし、ヒーターをフルパワーに入れ、具合が良くなるまでここで寝ろと言う。無言で従い、うわ言をつぶやきながら吐き気に耐え、3時間ほどが経って空が薄っすら白くなる頃には、どうにか車からはい出せるほどには回復していた。
ほとんど走れない代わりに、休憩を入れずひたすら歩く。200kmを過ぎると両足裏とも真っ赤に腫れあがる象足になり、一歩一歩に激痛が伴うが、やめようかという気分にはならない。いつものことだがビリケツ付近にいると、前からランナーが落ちてくる。皆どこかをひどく故障していて、拾った棒を支えに片足だけで歩いている人や、泣きじゃくっている人など人間模様が慌ただしい。
四方を山に囲まれた佐久平盆地を貫く真っ直ぐな道。傍らを流れる千曲川のせせらぎに夕陽が反射する。冠雪を抱いた浅間山や、白雪連なる北アルプスの峰々から冷たい風が届く。痛々しく脚を引きずるランナーの背中がセピア色の風景に溶け込んでいく。「川の道」ってどうしてこうも哀愁に満ちてるんだろね。バカなことに必死になってる人間ってやつが素敵だからかな。
昼と夜が5回ずつやってくる。
気温30度を超す真昼には、コンビニで買ったアイスを頭や首に巻く。凍える夜には道に落ちているジャンパーやヤッケを何枚も拾っては重ね着する。眠気に耐えられなくなると、公衆便所の温かい便座を抱きしめて15分だけ眠る。
そうやって最下位のあたりを順調にキープし、ゴール制限時間の132時間に対し、20分ほどの余裕を持って最後の街となる新潟市に入る。日はとっぷりと暮れている。
ゴールの7km手前で国道を逸れて、信濃川の堤防道路に上がるコース設定だが、そのあたりで住宅街に迷い込む。抜け出そうとしても寝不足からか方向感覚がない。
いよいよ追い詰められ、最終手段だとスマホのGPSを起動させるとバッテリーの残量が1%しかない。(この地図を目に焼きつけるんだ!)とマナコをカッと見開いた瞬間、ディスプレイは暗転する。網膜に一時保存した地図の残像を頼りに、信濃川の方へと駆けていく。夜の風景の奥に、かすかに横一線に暗い影が見えた。(土手だ!堤防だ!助かった!)。長時間迷っていたようで、時計を見ると残り7kmをキロ6分ペースでカバーしないと間に合わない。
もう全力で走るしかない。駆ける駆ける、息を切らせて駆ける。510km歩きとおしたズタボロの脚で、この大会最速のスピードを出し、街灯のない土手や河川敷を突っ走る。
ゴールまで残り1km。前の方からたくさんの人が駆けてくる。地元ランナーや他の選手の応援の方、エイドで助けてくれたスタッフの方もいる。僕の周りを取り囲み、伴走をしてくれる。「きっと間に合いますよ、でも油断するとアウトになるので気を抜かないで。ギリギリですよ」と引っ張ってくれる。
大きな建物の角を曲がると、直線の向こうの温泉施設の玄関に、ゴールゲートが光り輝いている。もう間に合う、ゆっくりと噛み締めながらゴールしよう。
131時間58分11秒78。6年前に初完走したときのタイムより100分の22秒速い自己ベスト記録だ。6年間で僕は100分の22秒進歩したってことだ。
樋口 私は「凡事徹底」と言うんですが、電話が鳴ったら一回で取る。元気よく挨拶をする。約束を守る。そういった「凡事」を極めることで、結果、「非凡な成果」につながるわけです。瀬古さんが練習を地道に積み上げ、大きな結果を出されたのと同じですな。瀬古さんも講演をやられるでしょう。
瀬古 僕は聴衆を絶対に寝かさないと決めてるんです。前の席の人に話しかけて会話すると、次は誰が指されるかわからないから、寝られない。吉本興業の芸人さんを見て勉強もしました。もっとも大阪のおばちゃんに、「セコさん、あんたの話は、オ・モ・ロ・ナ・イ」といわれました。「おもてなし」の振りで(笑)。まだまだみたいです。